服を着るということ
僕は服が好きだ。
世の中の人たちに比べて好きかどうかはわからないけど、
それでも、服が好きかどうかという問に関して、絶対的にYESだと答える自信がある。
さらに厳密に言うと、服を着ている(wear)ことも好きだけれど、
何より僕が好きなのは、新しい服を身に着ける(put on)瞬間だ。
服という自分以外の何かを一瞬にして自分の一部に変化させる瞬間。
服を身に着けるという営みは、ものすごい速度で自分を解体し、再構築するという営みだ。
オーバーサイズのプルオーバーに頭をくぐらせる瞬間、
肌ざわりのいい襟付きシャツに袖を通す瞬間、
伸びると色が変わる不思議な靴下を引っ張り上げる瞬間、
自己と非自己の境界が揺らいで、新たな輪郭が生まれる。
楽しさやときめきばかりではない、服を身に着けることは時に恐怖も伴う。
自分という存在が一時的に不安定になって、それが再び安定するまでの時間。
それは出口の見えないトンネルをライトもなしに歩いている感覚に近い。
恐れ、不安、期待、高揚、いろんな感情が入り混じる、永遠のような一瞬。
その瞬間を求めて、僕は今日も新しい服を探す
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10代くらいの頃の僕は、そうした健全な恐怖より、不健全な恐怖の方が強くて。
好きな服を着ることによって周りからネガティブな評価をもらうことがどうしようもなく怖くて、
一生懸命服を身に着けるためのルールを勉強して、それを当てはめて、
好きな服ではなくて、好きになるべき服ばかり選んでいた時期があって。
だけど、ハタチをちょっとすぎたくらいの頃に、
敬愛していた先輩が「ダサいって、オシャレの対義語じゃなくて、サブジャンルなんだよ」って教えてくれて。
「じゃあオシャレの対義語はなんなんですか」って聞いたら「無頓着」って。
ちょっとマザーテレサかよ笑って思ったけど、でもそれでなんか世界が開けた気がしていて。
それ以来、ダサいと思われても、変だと思われても、好きな服を身に着けることができるようになった。
もちろん引き続き、ルールは守っているつもりだけど、ルールを守りながら、それでも自分の好きなものを選ぶことは可能だ。
オシャレじゃない服なんて、この世界に一着もない。
ただ、こだわりのない人間がいるだけ。
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服のこだわり方は人によってそれぞれだ。
着心地で選ぶ人もいれば、デザインで選ぶ人もいれば、「ルールを守る」ことにこだわる人もいる。
あるいは、「選ばない」ことを「選ぶ」人もいる。
大人になって、そうした全てをオシャレだと思えるようになった。
そして、そうした色々な人たちのこだわりを無視して、
表層的な装いだけを見て、自分の尺度で人の服を評価するのを無粋だと思うようになった。
こだわりの強いダサさはオシャレのサブジャンルだし、洗練されて見えても物語のないコーディネートには価値がない。
その人がどんな思いで、自己と非自己の揺らぎを経て、その服を身に着けているのか、見た目からはわからないからだ。
それでも、道行く人を眺めながら、その人と服の間の文脈に思いを馳せる。
彼は、彼女は、どんな哲学を持ってその服を身に着ける決心をしたのか…。
見てくれがどうであれ、世界の揺らぎを乗り越えて、新しい自分に巡り合えた奇跡を称えたい。
僕は服が好きだ。
そして、服が好きな人が好きだ。