FYI ~ アラサー港区おじさんの独白

某会社で働いています。論理性が重視される職場ではありますが、ここでは感情や直感を大切に、お話をしています。

遠い季節

旧い友人に会って。

 

ほんの10年くらい前、すごく仲が良くて、いつもバカみたいな話をずっとして、悪態をつつきあっていたはずの人で。

なのに、卒業式ぶりに会ったその人は何だかすっかり変わってしまっていて。まとっている空気とか。

それで、あれ、どんな風に話してたんだっけ、って。わからなくなってしまって。

初めて会って話をする人みたいにぎこちなく、決まり悪く、なんとなく気まずい時間が流れて。

 

だけど、記憶の断片を提示すると「そうだったそうだった」と話が噛み合うから、同じタイミングで同じ思い出を思い出すから、

きっと、あの日あのとき一緒にいたのは本当にこの人で、本当に僕だったんだと思う。自信ないけど。

 

今に始まったことじゃない。

高校の頃も、大学の頃も、社会に出てからも、久しぶりに会う旧い友人の中には居心地の悪い人が一定数いて。

なんだか寂しい気持ちやら悲しい気持ちやらが押し寄せてきて、しかも、それが自分のせいなのか相手のせいなのかわからない。

今も昔も、ひょっとしたら僕ははじめからひとりぼっちで、その人と仲良しだったと錯覚していただけなのかも。とか。

 

でも、十中八九僕のせいだと思ってる。僕は多分、ものすごい速度でくるくると変わっているから。

根本的な部分はひょっとしたら何も変わっていないけど、でも多分、表出している部分はどんどん変わっている。

昆虫のように。どんどんと変わっている。メタモルフォーゼ。

 

そして、今現在進行形で仲良くしている友人たちも、少し離れて、時間が経ってしまえば、

もう今みたいに一緒に楽しく過ごすことはできなくなってしまうのかもしれない、とも思う。

遊んだりご飯食べたりした後、こいつと楽しく過ごせるのは今だけかもしれない、って。

帰り道、心地よい酔いがさめるタイミングで、いつも考えてしまう。

 

だけど、

あの日、あの時、一緒にいたこと、理由もなくゲラゲラ笑って、時々大もめしていたこと、そういう相手に出会えたこと。

見てくれや話すスピードが変わってしまっても、なんとなく話が合わないなって思ってしまっても、同じ思い出を思い出せる相手がいること。

それってとんでもなく奇跡だなって思う。

 

だから、誰かと繋がることを恐れないでいい。

エンドロールの後の世界で

 

東大理系の入学試験日程って、初日が国語・数学で、2日目が理科・英語で。

で、僕は理科と英語がものすごく得意で、国語と数学はそこそこだったので、初日はとりあえず耐えて、2日目で追い上げる、っていうスタイルで。

模試の時なんかも数学がほぼ0点みたいなあり得ない点数だったけど、理科と英語が驚異的な高得点だった結果、

志望全体での席次が定員の上位1割(もちろん合否判定はA)とかだったこともあって。

 

ところが、入試本番を迎えてみると、初日の数学が思いのほかできてしまって。

前半3問がするりするりと解けてしまい、その年最も難しいと言われた(諸説あり)大問4についても、少なくとも方針点はとれて。

なので、その段階で割と僕は「これは、まあ」みたいな気持ちになって。初日の夜はご飯もいっぱい食べて、ぐっすり寝て。

 

で、2日目はボーナスステージにいる感覚が強くて。

一番得意だった物理が、とても難しい年だったんだけど、かえって「まあ初日できたしな」みたいな気持ちで余裕を持って取り組めて、

その結果、割と冷静に諸々の情報を整理できて、これまたするりするりと解けてしまって。

英語が始まる前には「これ英語受けなくても受かるかも」みたいな気持ちだった(さすがにそんなことはなかったけど)

 

大受験て、割とドラマだったりするけど、僕はあんまりそんな感じじゃなかったな。

自分もそうだけど、周りも、「まあ受かるよね」みたいな感じだったし。

 

***

 

人生についても、いま、似たような、ボーナスステージにいるような感覚がある。

同い年の友人と「仮に明日死んでしまうとしても、悔いはないよね」って話ができるくらい。

普通の人と比べて何かを成し遂げたわけではないのに、なぜそんな風に思えるかはわからない。

でも僕は、生と死について考えるとき、あの日の英語の試験が始まる直前のような気持ちになる。

 

いずれにしても、これからの人生でスコアを上げるにあたって、僕の性格上この「ボーナスステージ」感は大事で。

プレッシャーの強い状況だと、焦って解ける問題も解けなくなってしまうし。

目の前のことにいっぱいいっぱいになってしまって、全体を俯瞰することもできなくなってしまったら、

それこそ折角たどりついた裏ステージをめいっぱい楽しめなくなってしまう。

 

そして、もし英語の受験を放棄して初春の東京に繰り出していたら、東大には落ちていたように、

きっと今、人生を放棄してしまったら、本当の意味で「あがり」にはならない気がするんだよね。

 

***

 

シナリオ本編を戦ってくれた過去の自分に感謝しつつも、

感動的なエンドロールの余韻に浸ってばかりはいられない。

いま、この瞬間を生きている僕が、過去の自分に恥ずかしくないように、

少し長めのボーナスステージを戦っていかなければ、と思う。

 

優しい気持ちで。

Subliminal Brainwashing

新興カルト「ありのまま教会」の信者、割と沢山いる。
厄介なのは、多くの場合、本人にその意識がないままに入信しているところ。
主な教義は、たとえ周りを傷つけても、自分を傷つけても、
とかく自分らしく生きることこそが正義だということ。

 

僕の大切な友達にも、このカルトに絡めとられたひとがいて、
その中にはもう会えなくなってしまった人もいるんだけど。
それで、本当に幸せになれていたらいいけど、本当にそうなのかな。
誰か、ひとりでも幸せになってくれていたら、まだ救われるのだけど。

 

ありのまま教会の人たちからすれば、自分らしさを表現しないことは罪で、
感情を表に出して、様々な形で表現することで幸福が訪れるんだ、って。
だけど、そもそも自分らしさって何だろう。誰が定義するのかな。
刻一刻と変化していくものだと思っていて、少なくとも僕は。

 

仮にいま、あなたが、あなたの思う「ありのまま」のあなたを愛せなくても、
別に無理に愛してあげる必要なんてないと思っている。
分厚いソール敷いて、ぱちもんのブランドの帽子でもかぶって、
それで街に繰り出せるなら、それでいいじゃん。ダメかな。

 

それを見た誰かが、「あいつは偽物だ」っていうかもしれないけど、
本物も偽物もないよ。そこにいるのは間違いなくあなたでしかないから。
自分からは逃れられないんだよ。どんなに嘘を吐いても、偽物でも。
すごく残酷だけど、すごく暖かいでしょ。

 

カルトの人たちは地獄に落ちるぞって脅してくるかもしれないけど。
でもいいじゃん。だって、ひょっとしたらこの現世が地獄なのかもしれないし。
そしたらとりあえず、今、この世界を生き延びることを考えようぜ。
次の世界のことはまた、次の世界に行ってから考えればいい。

 

だから、早く洗脳から目を覚ましてほしい。
ありのままなんかじゃなくても、嘘つきでも、幸せになれなくても、
あなたがいる世界がいい。

 

僕らは自由だ。

共犯

できるだけ、正しく生きていけたらいいんだけど、
どうしても間違えないと生きていけない人たちがいて。

 

***

 僕がまだ13歳だった頃、いつも僕に意地悪をする宮村くんというクラスメイトがいて。
彼はとかく何かを破壊することが好きな人で、いつも僕の教科書や、筆記用具や、美術の時間に作った陶芸品をめちゃめちゃにしてて。おかげで授業の時に教材がない、なんていうのもよくあることで。中学校の時、そんな感じだったから、例えば歴史や国語の教科書の本文はもらったその日に全部暗記していたし、英語はリスニング音声を家で死ぬほど聞いて全部暗記してた。教科書のコピーを何部も刷るお金なんてどこにもなかったから。おかげで僕は、だいぶ成績のいい子どもだった。

 上井くん、というクラスメイトもいて。彼は元々小学校の時からかなり不安定な人で。すごく数学が得意だったから、勉強についていけない、なんてことはないのだけど、あまり人と関わるのが上手な方ではなくて、それで、中学校2年生の夏休み明けくらいから学校に来なくなってしまって。僕は、上井くんと特に親しくしていたわけではなかったのだけど、いつ宮村くんに破られるかわからない自分の板書とあわせて、彼の分の授業ノートもまとめていて。

***

 ある、風がとても冷たかった日の放課後、僕が上井くんのノートをまとめる作業をしていた時、午後の授業をサボってどこかに消えていた宮村くんが突然教室に現れて、いつものように僕にヘッドロックをかけたり、僕の使っていた下敷きに落書きをして楽しんだ後、机の上で僕がまとめていたノートを見て、
 「これ、上井の分やろ?」
 「…いつも、先生に頼んで持ってってもらっちょんけん」
 「そうなんや。あいつ、もうしばらく学校来てないけんなあ。」

 僕たちはなんとなく沈黙して、しばらくぼんやりしていたのだけど、だんだんとその沈黙が重荷になって、耐えられなくなってしまった僕は、
 「…、宮村くんも来たり来なかったりやけどね」と言って、すると彼は、
 「お前、もう一回同じこと言ってみ?」
 と言って、また僕を羽交い絞めにして、その後で、僕の筆箱の中身をまき散らしながら「じゃあな」と言って出て行ってしまった。きっと彼も、僕と同じように、居心地の悪い思いをしていたのだと思う。

 宮村くん、上井くんが学校に来てないことも、僕が彼のために板書をとっていたことも知っていたのかもしれない。宮村くんと全然関わりがないと思っていたのに、上井くんのことをきちんと認識していたのかもしれない。僕の机の中はいつもぐちゃぐちゃだったけど、なぜかいつも、上井くんの板書だけは無事だったから。不自然なくらい、無傷だったから。宮村くんは、そういう人だった。

***

 結局、上井くんは3年生になっても学校に来なかったし、宮村くんは3年生になっても僕に意地悪をし続けた。漸く宮村くんが僕に酷いことをしていたことが、当時担任で、上井くんの元にノートを届けていた梅本先生にバレて、彼女、目に大粒の涙を浮かべて、職員室で「なんで早く言ってくれなかったの」って。僕はそれがなんだかとても滑稽に思えてしまって、「だって、先生に言っても何も変えられないでしょ」って言ってしまって。結局梅本先生は僕たちの卒業に合わせて、教員という仕事を辞めてしまった。彼女、ファンがいっぱいいたから、僕はいろんな人の反感を買うことになった。

 宮村くんも、上井くんも、そして僕も、少なくともあの中学校の中では逸脱していた存在だったんだと思う。僕は、宮村くんのことも、上井くんのことも、友達だと思ったことは一度もないけど、正しいことができない、よくないとわかっているけど間違えてるっていう謎の仲間意識、共犯者みたいな連帯感があって。梅本先生は、いじめっ子といじめられっ子と、そのいじめられっ子と仲良しの不登校、みたいな解像度でしか僕たちを見ていなかったけど。

 宮村くん、よくタバコを吸ってて。今はもうそのフレーバーは多分あんまり流通していないんだけど、たまにそれに似てるタバコの匂いがする度に、僕は彼と、彼がいつも気にしていた上井くんを思い出す。梅本先生のマスカラを溶かした大粒の涙も。

 多分、宮村くんや上井くんに比べて、僕はだいぶまともなフリが上手になって、今なら梅本先生ともうまくやっていけると思う。思うけど、でも、僕はあの頃から、本質的には何も変わっていない、とも思う。間違いだらけの13歳だった頃から、何も。

To make feedback better

I really like feedback, both providing and receiving, which I think is a critical element of a confrontation between professionals. I always try to provide feedback that surprises and impresses, though it's not easy. The followings are what I keep in mind to make feedback as good as possible.

 

(i) Structured

The most important thing is that the feedback must be well-structured. Some people often tend to provide feedback just the moment it comes to their mind, but personally, I think it is necessary to take at least 30 minutes to organize your thoughts before providing feedback. The point is to first write down thoroughly and objectively what the facts are. Then, think about the implications of those facts. If you are working in a professional firm, there must be a document that defines its "ideal state," such as its corporate philosophy or evaluation criteria. It is important to determine whether the facts are good or bad, sufficient or insufficient, in light of these documents. Without this process, it would be difficult to provide meaningful feedback for professionals who are keen on developing their skills.

 

(ii) Insightful

If you'd like to provide valuable feedback, the feedback should contain a deeper insight. Otherwise, the feedback would be something not special and is relatively worthless (although, of course, the point might be significant). There are many ways to generate deeper insights, one of which is to highlight "facts" that the receiver thinks are not important, but actually have important "implications" to the team. Something that makes the receiver "wow," such as a situation where small action that seems marginal to the person but contributes greatly to the team. Conversely, something that the reveiver thought was positive may actually have a negative connotation when viewed in the light of the evaluation criteria in, leading to deeper insights.

 

(iii) Development-oriented

The quality of feedback depends on the level of clarity of the final suggested action to be taken. Particularly when you provide feedback with  junior staff, the feedback shouldn't be "Okay, I understand what you are saying, but what exactly do I need to do?". Probably it might be super challenging for the staff to overcome the difficulties with such a low quality feedback. Therefore, it is important to write out and communicate what needs to be done at the "To-Do" level. Of course, there might be times when making feedback actionable is tough, but taking a stance on what should be done is essential for quality feedback.

 

Honestly, it is difficult to provide this kind of feedback to every member of the team every week or every project. Keeping enough time to think about valuable feedback is sometimes not realistic as we work hard day in and day out. There are times when we are not confident that the implications we derive from various facts are really correct.
But still, when working with professionals, there are moments when your heart can't help but be moved. Those moments are the source of quality feedback, I believe.

 

I just can't stop providing feedback.

服を着るということ

僕は服が好きだ。

世の中の人たちに比べて好きかどうかはわからないけど、

それでも、服が好きかどうかという問に関して、絶対的にYESだと答える自信がある。

 

さらに厳密に言うと、服を着ている(wear)ことも好きだけれど、

何より僕が好きなのは、新しい服を身に着ける(put on)瞬間だ。

服という自分以外の何かを一瞬にして自分の一部に変化させる瞬間。

服を身に着けるという営みは、ものすごい速度で自分を解体し、再構築するという営みだ。

 

オーバーサイズのプルオーバーに頭をくぐらせる瞬間、

肌ざわりのいい襟付きシャツに袖を通す瞬間、

伸びると色が変わる不思議な靴下を引っ張り上げる瞬間、

自己と非自己の境界が揺らいで、新たな輪郭が生まれる。

 

楽しさやときめきばかりではない、服を身に着けることは時に恐怖も伴う。

自分という存在が一時的に不安定になって、それが再び安定するまでの時間。

それは出口の見えないトンネルをライトもなしに歩いている感覚に近い。

恐れ、不安、期待、高揚、いろんな感情が入り混じる、永遠のような一瞬。

 

その瞬間を求めて、僕は今日も新しい服を探す

 

***

 

10代くらいの頃の僕は、そうした健全な恐怖より、不健全な恐怖の方が強くて。

好きな服を着ることによって周りからネガティブな評価をもらうことがどうしようもなく怖くて、

一生懸命服を身に着けるためのルールを勉強して、それを当てはめて、

好きな服ではなくて、好きになるべき服ばかり選んでいた時期があって。

 

だけど、ハタチをちょっとすぎたくらいの頃に、

敬愛していた先輩が「ダサいって、オシャレの対義語じゃなくて、サブジャンルなんだよ」って教えてくれて。

「じゃあオシャレの対義語はなんなんですか」って聞いたら「無頓着」って。

ちょっとマザーテレサかよ笑って思ったけど、でもそれでなんか世界が開けた気がしていて。

 

それ以来、ダサいと思われても、変だと思われても、好きな服を身に着けることができるようになった。

もちろん引き続き、ルールは守っているつもりだけど、ルールを守りながら、それでも自分の好きなものを選ぶことは可能だ。

 

オシャレじゃない服なんて、この世界に一着もない。

ただ、こだわりのない人間がいるだけ。

 

***

 

服のこだわり方は人によってそれぞれだ。

着心地で選ぶ人もいれば、デザインで選ぶ人もいれば、「ルールを守る」ことにこだわる人もいる。

あるいは、「選ばない」ことを「選ぶ」人もいる。

大人になって、そうした全てをオシャレだと思えるようになった。

 

そして、そうした色々な人たちのこだわりを無視して、

表層的な装いだけを見て、自分の尺度で人の服を評価するのを無粋だと思うようになった。

こだわりの強いダサさはオシャレのサブジャンルだし、洗練されて見えても物語のないコーディネートには価値がない。

その人がどんな思いで、自己と非自己の揺らぎを経て、その服を身に着けているのか、見た目からはわからないからだ。

 

それでも、道行く人を眺めながら、その人と服の間の文脈に思いを馳せる。

彼は、彼女は、どんな哲学を持ってその服を身に着ける決心をしたのか…。

見てくれがどうであれ、世界の揺らぎを乗り越えて、新しい自分に巡り合えた奇跡を称えたい。

 

僕は服が好きだ。

そして、服が好きな人が好きだ。

To live a better life

最近、「僕はどうやってこの会社で生きていくべきか」という、深遠な問いかけをいただくことが増えて。
そんなことを聞かれるなんて、僕も随分とおじさんになってしまったな、という感慨深さとともに、
一度も働いたことがない人相手に、そんなことがわかるわけないだろ!という投げやりな気持ちにもなって、
なので、まずはその人の話を色々聞いてみることから始めてみるのだけど、僕が喋り倒す前に。
 
この壮大な問に対するアプローチは沢山あると思うけれど、
僕は大体、①プロフェッショナルとしての付加価値をどうやって創造するか②XXさんならではの付加価値をどうやって創造するか、
の2つの観点に帰着させて、答えが出ないか議論するようにしている。
 
***
 
解きやすいのは①の論点の方で。
例えば評価項目、その会社で身につけるべきスキル、そういったいくつかの大項目とそれに紐付く小項目さえあれば、
ここができていない、ここはもう少し伸ばす必要がある、ここは十分、といった具合に、
プロフェッショナルとしての付加価値創出との差分が可視化される
 
さらに、そうした能力は基本的にその会社で働く(ないし、そのコホートで働く)全ての人が身につけるべきものであるので、
不足がある場合に、それをどのように身につけることができるのか、実効性のあるアドバイスが得やすい。
もちろんそれを身につけるための下地となる基礎学力や基礎コミュニケーション能力などは必要かもしれないが、
プロフェッショナルファームで働く人材にとって、身につけることができない類いのものではないと思う。
 
正直、もし大論点が「僕はどうやってこの会社で生き残ることができるか」であれば、①の論点さえ解ければそれでこと足りるのだけど、
今回の大論点は「どうやって生きていくべきか」なので、これにしっかり答えるためには②の論点が必要なのかな、と思っている。
そしてこの②の論点は、①と違ってシステマティックに解くことができないため、解き手によって答えは大幅にズレる可能性がある。
さらに、①がある基準を以て説明可能な絶対的な論点であるのに対し、②は状況に応じて変化する相対的な論点であることも特筆すべき点だと思う。
 
よく、②を解く際に、①で用いた評価項目だったり、必須スキルの中から自分の強みを見つけようとする人がいて。
それはそれでひとつのアプローチではあるのだけど、どこまで行ってもそれは①の範疇から出ることができず、
結果として(程度の差こそあれ)代替可能な存在にならざるを得ない(もちろんそれで十分なのかもしれないが)。
先述の通り、一定の下地がある人たちにとって、①の能力を身につけることは可能であるから。
 
まず、その人にしかない特性、他の人がどれだけ努力しても獲得することが難しい資質は何か、が②のサブ論点一つ目で。
その解は①の項目の中にはないし、もっと言うとまだ言語化具体化されていない概念である可能性もある。
なんとかそれを特定できたとしても、それを用いてどのように付加価値が出せるのか、というもう一つのサブ論点を解かなければいけない。
そしてこのサブ論点は、時と場合によって大きくその解が変わってしまうので、走りながら考え続けなければならない。
 
***
 
正直、僕にできるのは、①の話と、②の一つ目のサブ論点の解のヒントを出すことくらい。
もう少し一緒に働いていたり、同じプロジェクトにいれば、②の二つ目のサブ論点の解も話せるかもしれないけど、自信はない…
それでも、初めましての人と、こういう話ができること、プロフェッショナルとして対峙できること、
すぐに解を得ることができなかったとしても、それ自体がとても悦ばしいことだと思う。
 
ちなみに、
話したこともない人から、そうした深遠な問いを投げかけてもらえること、
その深遠な問いについて整理し、一緒に考えられること、
その人ならではの特性、資質に関するヒントを、短い会話の中から導けること、
そうした一連のプロセスの中に、僕にとっての②の解があるような気がしている。
 
でも、まだ僕も、「僕がどうやってこの会社で生きていくべきか」知らない。